「“産めよ、増えよ、地に満ちよ”。子も母となり子を育むならば、原罪は永久に廻り続けるだろう……」
 昏き冷雨の牢獄に繋がれた一人の男。その口が紡ぐは、嘗て一人の詩人が綴った詩の一節。
テイレシア
 その後、彼の口が紡いだのは一人の女の名。それは、もう二度と帰ってはこない愛しき人。
 お前を殺したあの愚行の王を、私は……俺は、赦しはしない。
「さあ、倦めよ、湛えよ、血で満ちよ。王も奴隷も人なれば、痛みも悼みも尽きはしない」
 泣き叫べ! 声を嗄らせ! 身を引き裂け!
「黒に呑まれた終焉の淵で!」
 その時、闇に堕ちた世界の淵から一人の詩人が扉を開いた。



 突如、大きな屋敷に響き渡る鐘の音。その音に、書斎にいた漆黒の青年と金髪の少女が反応した。
「ねえ、今の音なあに?」
「…………」
 少女の問いに青年は答えない。ただ彼は、険しい表情で一点を見つめている。
「? どうしたの?」
「……ああ、ロッティ。いや、お客さんがきたようだからね」
 そう言うと、青年は静かに立ち上がり歩き出した。不審に思いながらも、ロッティと呼ばれた少女はその後を追った。

 書斎を出て、廊下を通り、屋敷の玄関口の扉を開ける。すると、そこには一人の白銀の髪の青年が背を向けて立っていた。
「君は……」
 漆黒の青年の声に気付き、その青年が振り向く。その瞳は紫を宿しており、白銀の髪にも一房の紫が交じっていた。
 漆黒の青年を見る紫眼には、昏き闇と紅月が見え隠れしている。
「お前、誰だ?」
 冷ややかな態度で紫眼の青年は言った。その態度に、漆黒の青年の背後にいたロッティは怒鳴る。
「ちょっと! その言い方は無いんじゃないの?」
「ロッティ。……初めまして、“ブレジャーノ=アルティスタ”」
 怒鳴ったロッティを咎め、漆黒の青年は紫眼の青年を見つめた。
 漆黒の青年の言葉に、紫眼の青年は顔を顰める。
「どうして、俺の名前を知っている?」
「さあ、どうしてだろうね?」
 二人の間には、不穏な空気が流れ始めた。無言の睨み合いが続く。先に口を開いたのは、紫眼の青年―ブレジャーノだった。
「……まあ、いいか。どーも、坊ちゃん。お前はここが何処だか知ってるのか?」
「ああ、勿論。ここは黄昏の終焉の地。行き止まりの不毛の世界さ。本来ならば、君のような人は訪れることのない場所だが、どういう訳か、君もここに辿り着いてしまったね」
 ブレジャーノの問いに、青年はロッティの方を一瞥してから苦笑して答えた。
「君“も”? じゃあ、其処にいる餓鬼もここに辿り着いたってことか……」
「なっ、餓鬼って何よ!」
「ハッ……餓鬼は餓鬼だろ?」
 ブレジャーノの言い草にロッティは顔を赤くして言う。それを、ブレジャーノは鼻で嗤った。
 その二人のやり取りに、漆黒の少年は思わず溜め息をつく。
「……ロッティ、レジ君。こんな不毛の地で無益な言い争いは止めたらどうだい? 何の特にもならないだろう。寧ろ、愚行に見えて醜いよ?」
 漆黒の青年の言葉に、二人は同時に彼を見た。ロッティは不満げな表情で、ブレジャーノは端正な顔を思い切り歪ませて。
「おい、その“レジ君”っていうのは、俺の事か……?」
「他に誰がいるんだい? ブレジャーノじゃ長いじゃないか。だからレジ君。良いだろう?」
 口角を引き攣らせながらブレジャーノが問えば、青年からは微笑みと返答が返ってきた。その返答に、ブレジャーノはさらに顔を引き攣らせる。
「一体、どこから取ったんだよ! その愛称!」
「え? ブ“レジ”ャーノのレジだけど?」
 二人の間に再び沈黙が流れる。引き攣った顔のブレジャーノに微笑みを湛える漆黒の青年。
 遂に、ブレジャーノは折れた。
「……分かったよ。もう、好きにしろ。……ったく」
「それじゃ、お言葉に甘えておこう。ほら、ロッティ。君も挨拶しなさい」
「ええ〜……。私は、シャルロット=フランソワ。ロッティって呼ばれてるわ。言っておくけど、アンタなんかと仲良くするつもりなんて無いから!」
「安心しろ。俺もお前なんかと仲良しこよしなんてするつもりは微塵もねぇから」
 ブレジャーノのその一言が、ロッティの怒りの琴線に触れてしまった。
「なんですってぇっ!」
「あぁっ? やんのか、餓鬼が!」
どうやらこの二人、非常に相性が合わないらしい。ロッティが子供過ぎるのか、レジ君が大人気がないのか、或いはその両方か……。
 静寂が支配していたこの世界が、随分と賑やかになったものだ。
 漆黒の青年は、呆れ顔になりながらも微かに微笑んだ。
 しかしながら、本当にこの二人は無益な言い争いしかしないらしい。いい加減、青年の堪忍袋の緒が切れそうだ。
「ロッティ、レジ君。そろそろ止めたらどうだい?」
「だって、この馬鹿男がっ!」
「んだと、糞餓鬼っ!」
 何かが切れる、音がした。
「黙れ、と言っているのが分からないのかい君達は? だったら、君達は相当頭が弱いんだろうね……?」

 その言葉で、一気にその場の空気が凍りついたのだった。



 大きな屋敷の奥。幾重もの扉で隔離された書庫に彼女はいた。
 彼女が暇を持て余していると、扉の鍵が開錠された音がした。
「……あら。どうしたの、夜明けのお兄さん」
 扉を開け書庫に入ってきたのは、漆黒の青年だった。彼の表情は、いつものような微笑ではなく、暗く険しいものだった。
「……クロエ」
 入ってきた彼は、ただ一言呟いただけだった。その様子に、クロエは溜め息をつく。
「また、何かに悩んでいるの? 最近多いのね。今度の悩みの種は、例の彼?」
「……そういう、訳ではないけれど。今日は、ただ探し物を、ね」
「探し物?」
 彼女の言葉に彼は頷き、書庫の本棚を漁りだす。暫くすると、探し物を見つけたのか、本棚から一冊の本を取り出した。
「これだ……」
「何の本なの? ……“終わりを告げた占い師”? それ、童話じゃない」
 クロエが彼の持っている本を下から見上げると、その本は、一つの童話だった。
「何? それが探し物だったの?」
「ああ。この本に登場する占い師は、彼の失われた恋人なんだよ」
 彼とは、例の彼。この青年の悩みの種である“自らの意思で輪を抜け出した”青年であるとクロエは悟った。それと同時に、何故彼がこの本を探しに来たのかも。
「“紅き月。その輝きは、一人の占い師の未来を告げていた。” ……全く、どう考えても童話向きの話ではないことは確かなのに、何故この史実を“童話”になどしたのだろうか」
 “紅き月”など、衝動を促す魔の輝きでしかないのに。
 青年は、嘲笑うかのように言葉を紡いだ。
「それに、その史実も真実じゃないのにね。紅月が導いたのは、一人の詩人の“衝動”と一人の歌姫の“憾み歌”」
 そう言って、クロエは微笑んだ。その様子に、青年は呆れつつも微笑を返す。
「“衝動に従った男”。まさにIdだな」
「でも、彼はIdであり、“変革者”でもあるわ」
「そこがまた厄介な問題だね」
 青年は大きな溜め息をつく。その顔も、幾分か疲れているように思える。
「Altariaのこともある。竪琴だってまだ鳴り続けているし、時渡りの糸も切れていない。暫くは、下手に行動は出来ないだろうね」
「・・・・・・そうね。あの子が覚醒しないとも限らないもの」
 その言葉を聞いた青年の脳裏に蘇るのは、数多の生者の囁き。自らを永久に呪縛するたった一つの祈り。
 彼は思わず自らの胸元を押さえた。その顔は苦痛に耐えるかのように歪んでいる。唇を噛み締め固く目を閉じれば、瞼の裏に浮かび上がる人影。
「…………っ」
 もうその名を呼ぶことさえ、出来ない。
「……大丈夫よ。私がいるわ。キミは一人じゃないもの」
 そんな彼に、クロエは言う。
 一人で苦しまないで。一人で戦わないで。独りで享受しなくてもいい、と。
「……ありがとう。クロエ」
 彼はそう言うと、手にしていた本を元の場所に戻し、傍らにいる人形“だった”少女をきつく抱き締めた。
 ――それでもキミは、誰かに救いを求めないのね。
 少女を抱き締めながらも絶対に救いを求めない青年に、クロエはただ悲しげに微笑む。そして、彼が望まないと知りながらも、小さな腕で彼を抱き締め返した。



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