私は、今、何処にいるのだろう……?
右も左も分からなくて、水の中にいるように揺れる視界。けれど、炎の中にいるように熱くて、不思議な感覚。
私は、誰……だったっけ……?
*
決して人が立ち入ることの出来ない地に建つ一件の大きな屋敷。
その屋敷の一室、数多の本が敷き詰められた書斎で、本を読んでいた青年が不意に顔を上げた。
「……? 嗚呼、お客さんだね」
「そうなの?」
青年の呟きに、青年の膝に座っていた人形のような少女が言う。そんな少女の問いに、彼は微笑みを返した。
「お出迎えに行こうか、クロエ」
「分かった、行こう。夜明けのお兄さん」
その返答を聞いた青年は読んでいた本を閉じた。
それを見た少女は、座っていた彼の膝から飛び降りた。少女が降り立った床からは、カツンという固い音が響いた。
それを確認した青年はゆっくりと立ち上がり、少女の手を引き書斎の扉を開け外へ出た。
書斎を出てから、廊下を通り、屋敷を出ると、目の前に広がるのは果てのない荒野。その光景に戸惑うことなく、青年は少女の手を引いて歩いていく。
暫く歩いていくと、そこには小さな泉、そして、その近くに横たわる人影が見えた。
その人影の近くまで来た少女は青年を見上げる。
「・・・この子が“お客さん”?」
その人影は金髪の少女だった。青と白を基調とした服を着ている。
「そうだね。どうやら“迷い子”らしい。……砂時計に砂がない。散乱させてしまったのか……」
そう言った青年の左手には、いつの間にか砂時計の容器があった。しかし、それには砂が入っていなかった。
「……どう? 分かりそう?」
無言でそれを見ている青年に少女は尋ねる。その少女の瞳は無機質な輝きを放っていた。
少女の声に、暫くしてから青年は答えた。
「成程、そういうことか。だから、散乱させてしまった……否、散乱させられてしまった訳か。“偶像と踊った娘”」
「Idola?」
少女の問いに青年は頷いた。
「さて、どうしたものか。ここに流れ着いてしまったのならば、元の流れに還さなければならないんだけど、な・・・」
青年はそう言いつつも、自らの手の内にある砂時計を見つめ苦渋の表情を浮かべている。
「どうしたの? キミが悩むなんて珍しい。いつもなら、すぐに砂を集めて輪に還すのに」
「ん……あ、ああ」
歯切れの悪い青年の返事。それは、何かに思い悩んでいるようにも思えるものだった。
彼が悩むのには訳があった。それは、この人物の“過去”に原因があった。
あまりにも、似ているのだ。いや、似ているというものではない。ほぼ、同一。
今、目の前に横たわっている少女と“永遠”の少女の生涯が、あまりにも……。
「……似てる」
「似てるって、誰に?」
そう聞かれた青年の瞳は、遥か過去へと遡っていた。
その瞳が見つめていたのは、四角く切り取られた世界で“この地”に至る扉を開けた・・・。
「……永遠の、」
「永遠の? ああ、メアリー=タウンゼント?」
「トワール」
そう、メアリー・タウンゼントという本当の名を知ることなく生き、そして死んでいった光を失った星の少女。
生まれや家庭の環境が似ているわけではない。しかし、生きてきた経緯、その根本の“運命の糸”の紡がれ方が似ているのだ。
メアリーの生涯は、傍から見れば決して幸せとは言えない人生だった。
本当の両親も知らず、本当の名前を知ることもなく、偽りの夢想に囚われたまま孤独のうちに、死んだ。
だから、青年は恐れていたのだ。
迷い子ならば、人としての輪廻に還すべきだが、彼女によく似たこの娘を輪に還すことが、本当に幸せなことなのか。もしかしたら、輪に還すことによって、新たな悲劇を生んでしまうのではないか、と。
「でも、似ているからって同じ道を辿るとは限らないでしょ? 大丈夫よ、きっと。私を創り上げたキミだもの、きっと幸福な輪に還してあげられるわ」
「……だと、良いんだけどね」
「というか、キミはいちいち気にしすぎなのよ。人の世のことは人に任せておけばいいのに、いつもいつも他人のことを気にして、心を痛めてる。そんなんじゃ、いつかキミが壊れてしまうわ。キミは私と違って痛みを感じるのだから」
未だ表情の晴れない青年に、傍らにいる少女は言った。繋いでいた彼女の手からは温度が感じられない。
「……でも、クロエ。お前だって、痛みは感じるし、悲しみもするだろう? お前“達”には、出来るだけそんな思いはしてほしくないし、させたくはないんだ」
分かってくれ、と青年は少女に弱々しく笑いかける。
彼が、何故そんなことを自分にまで言うのか、セルロイドの瞳を持つ彼女には分からなかった。
「私は、お人形。ご主人様に造られた“モノ”なのよ。感情なんてないし、涙もない。苦痛を感じることもない。本来なら、歩くこともお話しすることも出来ないのだから、キミが私に気を使う必要なんてないのよ?」
「それでも、お前は“生きている”」
青年は、自分を人形だといった少女にそう言い切った。
そんな青年の言葉に、少女は思わず顔を顰めた。
「そうね、私は今はこうして生きている。キミに生かされているから」
「…………」
少女の言葉に、青年は悲しげに笑う。そんな彼を見て、人形の少女―クロエは申し訳なくなった。
――そんな顔、させたいわけじゃないの。ただ……
その時、横たわっている少女の体が微かに動いた。そして、そのまま瞼が開き、空の色を宿した瞳が姿を見せた。
少女が体を起こすと、それに従って金糸の髪がゆらゆらと揺れる。
「……だれ?」
二人の存在を認識した少女がそう言った。
そんな彼女に、青年は微笑みかける。
「初めまして、“シャルロット”」
青年は名も分からぬ少女にそう言った。まるで、それが彼女の名であるかのように。
「シャルロット? それが、私の名前なの?」
「そうだ。“シャルロット=フランソワ”、それが君の名前だ」
少女は、自分が誰なのか分からなかった。だから、そう言った目の前の青年にそう問いかけた。
青年は、彼女の名を知っていたし、何故彼女が自分の名が分からないか知っていた。だから、少女の問いに平然と答えた。
「シャルロットだから、ロッティね」
少女の名を聞いたクロエは、そう言ってシャルロットに微笑んだ。
「はじめまして、ロッティ。私はクロエリア。クロエって呼んで」
そう言って、クロエはシャルロットに左手を差し出した。シャルロットは、戸惑いながらもその手を取った。それを見ていた青年の表情は穏やかなものだった。
「ようこそ、シャルロット。僕達は君を歓迎しよう。ついておいで、クロエ、ロッティ」
そう言うと、青年は踵を返し来た道を引き返し始めた。
クロエとロッティは顔を見合わせて笑うと、彼の後を追って駆け出した。
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