某月某日、本日はお日柄もよく……なんて現実逃避ができたらよかったのに。目の前にあるベンチに座っている男は、胡散臭い笑みを浮かべている。崩れることのないそれを見下ろした。
「……で、何のようですか?」
 なぜ、こんなことになったのか。それは少し前に遡る。

 学校が終わり、家路についていた私は、肩を叩かれたことに後ろを振り返った。
「やあ、Missen」
 しゃがれた声、そこにいたのは帽子を被った50代くらいの男性だった。白髪まじりの黒髪、右目は前髪に覆われていて、後ろはひとつの三編みになっている。翡翠の左目はまっすぐにわたしを見ている。ぶっちゃけ、全く見覚えのないおっさんだ。
「えっと……」
「確か……フィーノ・ハレットさんだったかな」
 どうして私の名前を知っている。目の前の人物は会ったことない人間のはずなのに。怪しさ満載すぎる。明らかな不審者に疑いの目を向けていると、右腕を掴まれた。
「ちょっと!!」
「まあまあ、そんな顔をしては可愛い顔が台無しですぞ」
 腕を振りほどこうとしても、しっかり掴まれているらしくほどける気配がない。助けを呼ぼうとしても、この時間帯には珍しく、周りには人ひとりいない。なぜ、こういうときに限っていないのか。タイミングが悪い。
「少し……話をしようか」
 私の返事も聞かず、彼は近くのベンチに私を引っ張っていく。
 そして、冒頭にいたるというわけだ。

 私の腕を解放した彼は、よっこいしょとベンチに座った。
「せっかくベンチがあるのだから座ったらどうかね?」
「いや、不審者と仲良くベンチに座る趣味はないので」
 即刻お断りすれば、残念だといいながら彼は笑っている。全然残念そうじゃない。
「フィーノ君」
「気安く名前を呼ばないでもらえません?」
「こんな話を知っているかい? 世界は元々1つで、それが細分化されることによって異なる世界が出来上がる、という話だ」
 聞けよ。人の意見は総無視か、こいつ。しかも、いきなりファンタジーな話をされても困る。何言っているんだこいつ、という意味を込めた視線を送ってみたが、その意図がわからなかったのか、はたまた分かっていて無視したのか分からないが、話を続けた。
「世界は元々1つでこれがこまかく分けられて様々な存在になる。我々の住む世界も1から分裂したものだそうだよ」
「はぁ……」
 すごく間抜けな声が出たが、仕方ないと思う。そんなこと言われても、そうですかとしか答えようがない。
「世界は今も細分化を続けていて、あまりにも細分化された世界は消滅あるいは統合しているという。人間も世界が細分化されている過程で作り上げられた存在で、それぞれ個がひとつの世界を形成しているのだそうだ。この世界を主観というらしい」
 面白い話だろう? と首を傾げた彼に、そうですねと適当に返事をした。
「で、話はそれだけですか? 生憎ですけど、私奇人変人に関わる趣味はないので」
 失礼します、彼に背を向けて帰路につこうとした私を止めたのは、再び私の腕を掴んだ彼の手だった。
「まだ何かあるんでっ……」
 言いながら振り返った私の言葉は、皆まで言うことなく止まった。なぜなら、振り返った私の目の前にあったのは、男性の端整な顔だったからである。混じりけのない黒檀の髪、鮮やかな翡翠の左目に顔の半分を覆い隠す黒、その隙間から見えるのは燃えるような紅蓮。被っている帽子はさっきまで私に一方的に話しかけていたおっさんと同じもの。まさか、目の前にいるのがさっきの人? いやいや、ないない。同じ帽子だからと言って、印象が違いすぎる。
 混乱している私を差し置いて、その青年は口を開いた。
「本題はここからだ。僕が君を探していたのはこれを渡すためだよ」
 差し出してきたのはずいぶんと分厚い一冊の本。黒い表紙のそれは大分古ぼけていた。未だに現状が呑み込めていない私は、それを受け取ることなく呆然と眺めていた。そんな私に、彼はぐいっと本を押し付けてくる。押し付けられるがままそれを受け取った私を見て、彼は笑みを深めた。
「……なんですか、これ?」
「それが何かわからなくてもいい。返さなくていいから、絶対にそれを読んでくれ」
「返さなくていいってどういう……」
 尋ねようとした相手は、瞬きの瞬間にその姿を消した。
「……は?」
 あまりにも突然なことに、二、三度瞬きを繰り返す。どういうことだ、と周りを見渡してもその影は見つからない。いるのは、さっきまでいなかったはずの通行人たちだけだった。
 まさか、幻覚だったのか。それとも白昼夢? けれど、そんな考えを打ち消すように私の手の中には、あの古ぼけた本があった。少しだけ埃をかぶっている表紙を軽く撫でる。その下から出てきた文字は。
「……終わりを告げた占い師?」
 何かの物語、だろうか。気になった私は、その表紙を開いた。羅列された言葉は馴染みがなければ見覚えもない。ともなれば、普段私たちが使っている共通語ではなく、また歴史や文学で学んでいる古語でもない、ということか。
「読めないものを読めと言われてもな……」
 読めるはずがないだろう、とぼやいた。そのとき、急に読めないはずの文字の羅列が読めた。知らないはずだ。しらない、はずだ。なのに、するすると浸透してくる言葉に恐怖を覚え、私は勢いよく本を閉じた。
「……っ」
 呼吸が荒くなる。ものすごい勢いで血が流れているような感じがする。まるで、私が私でなくなるような、そんな恐ろしさを感じた。
 なぜ私は、“はやく行かなければ”と思うのか。なぜ、私は“あの人が逝ってしまう”と考えるのか。
「Mijn Heer……」
 それでも、急がなければと“何か”が叫んだ。



 Edis, wehlen klaiz ol rinken alles linat.
 Schonelise, liegen ol fersperl zerb vo felt.
 Ayluna, almane ol luf "I'yris".
 Alchrement, silnes ol elfen tuua.
 Un wiel, dengelt timo kam do.
 Cruter dane ist "Nolelant".
 "So, query! Whi ingwas ol dorinken do schumel fier!"
 "So, norlieren stime! Whi merloc ol norlieren do vaser!"
 "So, tiebrei korpe! Whi flue ol shurisa do!"
 "So,freis, fiel, hafel pe blud!"
 "Whi endiry olte ol dorinken do denge!"
 "Whi dengelt heftheat" dourein anfan.
 Un diet......
「Eden vo tuua doelfen wil samtimo」
 そう締めくくった青年の背後から硬い靴音が聞こえた。
「ずいぶんと聞きなれない音の文章ね」
「クロエ」
 クロエ、と呼ばれた少女は、青年に向かって歩いていく。近づいてきた温度のない彼女を青年は抱き上げた。
「また、探しに行っていたの? あんまり、世界を細分化しないほうがいいんじゃないかしら?」
 細分化しすぎて困るのはキミでしょ? と呆れた様子の少女に青年は苦笑する。
「それはそうだけど、“数撃ちゃ当たる”って言葉もあるだろう。なるべく可能性のある種には水を撒いておきたいんだ」
「でも、それが嵐に呑まれちゃ意味がないと思うわ」
「あはは……」
 少女の的を射た発言に青年の口からは乾いた笑いしか出てこない。そんな彼の様子に、やれやれと少女は肩を竦める。
「そもそも、あの子に望みはあるの?」
「あると信じているよ。何せ、“ハレット”の名を持つ本物だからね」
 “ハレット”――それは因縁尽くの継承。世界線を裏切る血族、世界線を越える血脈。その智に数多の世界を悟り、その血に幾千の歴史を宿す魂の系譜。
「“フィーノ・ハレット”――いわば彼女は最後の詩人なのさ」
 青年の翡翠の左目が鈍く光る。その目が見つめる先は、最後の詩人の砂時計。そして、それはいずれ反転して現実と御伽噺を入れ替える。


 これはいつか消えた、もしくは、いずれ消え去る小さな欠片の世界の一つの物語である。



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